第14話   講演「庄内竿の魅力」 V   平成16年07月22日  

講演会が終了後、庄内竿の提示の竿を振って見ることとなった。古の名竿を直に手にとって振ることなどめったに出来ない。

その中に「野合い日記」で有名な秋保親友の銘のある竿が二本あった。秋保親友は庄内藩400石郡代、軍学師範を勤めた上級武士である。自ら竿作り、釣をたしなみ、その日記に、「名竿は名刀より得難し」と書きその名が今に残っている。他竿について記述に「竿に上中下の三品あり。その品に名竿あり、美竿あり、曲竿あり」と感想を述べている人物である。名竿とは、本(手元)とウラ(穂先)総体がリンリントと釣り合いが取れている竿を云い、美竿とはお手本竿(丹羽庄右衛門の極限までの細さと長い竿が酒井家のお手本竿となっている)になる竿、曲竿は雨や霜、露等に合うと一変に竹の悪い所が出てきて使い物にならない竿を云う。そんな彼の自家用の竿を触れて振って見ることは中々出来るものではない。この時代の竿はすべて白竹で作られている。すべて竹の皮は燻されて飴色に変化し、見るだけで美術品を鑑賞している気になるから不思議である。

まず最初に秋保親友の銘のある二間余の竿二本を振って見る。確かに良い竿とは云いがたいが、武士が自分で釣るために自家用として作った竿としては先ず先ずの出来である。この当時の芽取りは、その人その人で異なっている様で決して上手なものとは云えないが、いかにも武士らしい荒々しい竿作りで実用の竿との感じがする。日記によれば、当時の竹取りの時期は、何故か5月から9月迄に集中している。現在は竹の水揚げを休止する11月以降に竹取が行われている。彼だけがそうだったのではなく他の武士の竹取もその様に行われていたのかは分からない。その時期に竹取をした竹で作られた竿にしては、結構硬くしまっている竿である。

次に振ったのは明治の竿作りの名人上林義勝の伝説の名竿榧風呂(かやぶろ=4間一尺 約7.50mのスズキ竿で、庄内竿収集家で有名な豪農五十嵐弥一郎氏が榧風呂と交換にやっと手に入れた竿で榧は碁盤や将棋板に使われた高級木材であった。)である。元々癖のある竿のようで、ウラは漆で綺麗に継がれていた。上林ならではの名人の技で無ければこの竿は矯め切れなかったであろうと考えられる。特に上林老人は生涯手元に置きたくて取っておいた竿であったが、中風に悩んでいた頃、前々からこの竿を欲しくて所望していた五十嵐弥一郎氏に「榧風呂に入ると中風が直ると聞いたので、一週間以内に榧で作った風呂を作ってもらえたら差し上げよう」といってしまった。そこで五十嵐弥一郎氏は鶴岡の風呂桶屋に交渉して約束の日まで作り上げてやっと手に入れたと云う代物である。その後酒井の殿様がこの竿を欲しがっていたことを知り差し上げたと云われている。この逸話が元で世に「榧風呂」の名竿と云われている竿である。そんな訳で酒井氏の竿となり、現在は致道博物館に大切に展示されている。この竿もかなりの年月のうちに癖が出て来ているが、振ってみるとそれでも一尺二寸の黒鯛、二尺四寸のスズキが釣れても取り込みの後は、何事も無かったかの様に真っ直ぐに元に戻ったと云う片鱗を感じさせる豪竿の名竿であると感じた。ただ惜しむらくはこの竿は三つに切られ真鍮パイプ継ぎとなっている。

次に松濤公(酒井家第十四代酒井忠宝=ただみち 写真の右加茂水族館長村上氏が振っているのは榧風呂で左が松濤公の愛用の竿)の完全な延べ竿で四間二尺(約7.80m)の長竿を振って見た。彼の愛用のこの竿は無銘ながらもかなりの名のある竿師のものと推察出来る。こちらの竿もかなりの豪竿で赤鯛を釣るために作られた竿のように感じた。この竿で釣り上げたと云う大物が致道博物館の御陰殿にある二尺一寸の赤鯛、二尺余の石鯛、一尺七寸の黒鯛などの魚拓が展示されている。

庄内竿は手入れを欠かさず行っていれば寿命は百年以上とも云われており、現に昭和五十年代に百年を越えた江戸末期に作られた竿を使っていた人たちがいた。竹本来の素質を生かし、和蝋燭を使った独特の方法で矯めた竿だからではないだろうか?同じ苦竹で作られて中通しに加工された竿では寿命は20〜30年と云われている。